「滲(にじ)ませる」という音の表現を知り、それを理解したいと思った中で、5年前に思いを馳せました。
クラリネット宮前和美
『滲(にじ)ませる』
音楽の中で、「滲ませる」という表現がある。
門下外のクラリネットの先生のレッスンを聴講して、それを知りました。
抽象的な言葉を上手く使って、想像力を掻き立てられるような表現する人は、表現者の中でも一握り、私にとって尊敬に値します。
そのときもそうでした。
「和声的に、滲ませる。」
その音楽の、その場所は、この表現が、先生にとって本当に心から一番しっくりきて、この言葉を選んでいたのが分かりました。
でも門下生ではない私にとっては、その意味する音楽表現が、実際何なのか一瞬「?!」になり、なんとなくこういうことだろうなと、しばらくお手本を聴きながら考えて、理解の場所を作りました。
何度もこういう音だよと言い、お手本として吹いていた音は耳に残っていますが、「滲ませる音」をより記憶しておくために、頭の中で具体的な文字に起こそうと言葉を見つけにいったのですが、その音を導けるような表現は見当たりませんでした。
その先生が、音楽のその部分を表現する為に、言葉を選んでそう言える表現力と、そこが滲むように感じる、音に対しての繊細な感受性。
その先生の感受性を近くに感じられ、表現の奥深さを見せてもらい、私にとってこういう事が音楽を続けている意味でもあると、本当にワクワクしていました。
知っていることと、分かっていることの差。
それに反して、もどかしさも感じました。
その先生自身の言葉でどんなに最適に語られたとしても、私にとってそんな言葉で語られる音楽感覚は新しすぎるし、自分自身がその和音の中で楽器を吹いて、「滲む」という表現を体験し、センスや経験を持ち合わせていなければ、その先生が感じているそのハーモニー感覚、音楽体験と同じ理解には至れない。
実体験。
楽器やアレクサンダー・テクニークのレッスンも、音楽を聴くも吹くのも、どんなに素晴らしい経験も、今まで起こった様々な出来事も、実際の体験無くして、本当の意味で実感はできない。
表面上知識の上で『知っている』ということと、自分の中に落とし込んだ『分かっている』ということの差が、体験がないことで広がりを埋められないという側面があると思いました。
2011年3月11日
2011年3月11日、自宅で練習しているときに、地震は起こりました。
横浜では震度5強。
連絡がつかないレッスン先に向かおうとしましたが、バスも、電車も、動かない。
止まっている信号、人で溢れる駅や喫茶店、見知らぬ人との会話、それから数ヶ月続くことになる、非日常があちこちにありました。
その日中ずっと停電していたので、情報源はラジオだけ。
数時間後、テレビの映像を見ました。
夜は懐中電灯の灯りだけでしたが、家族がいる家の中で、布団でただ眠れることが涙が出るほど幸せなことであり、それを手に入れてしまっている後ろめたい気持ちと共にその夜を過ごしました。
あれから5年。
差を埋める。
よりリアルに、より理解を深めたいという思いは、体験したか、していないかという条件をクリアするだけで、飛びこえられるかもしれません。
逆に実際に体験しないと、限りなく『分かっている』つもりの『知っている』止まりでしかないのかもしれません。
「滲ませる」という音の表現も、素晴らしい体験も、過去の辛い出来事も、5年前の震災も、体験の有る無しと時間が遠ざけていくように感じます。
それでも、その差はどう埋められるかとこの日改めて想いを馳せました。
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